ただ今絶賛2度目の不登校中。自閉症スペクトラムの高校生男子&ママの幸せ探し珍道中。
先日、明日平の転校先(通信制高校)が決まりました。
本人が一番気にしていた「2年で卒業できるか」どうかも、 ちゃんと単位さえ順当にとっていけば2年での卒業も可能ということが分かり一安心。
(順当に単位がとれるかどうかは別問題ですが🤣)転校が決まって、手続き関係で明日平も私も疲れているものの、精神的にはとても楽になりました。
ただ、3月下旬だったので、転出も転入も手続きはバタバタしました。
手続きの順番としては、転入手続き(新しい学校への出願)が先で、転出届が後だったんですが。
何でもギリギリが日常と化しているさすがの私も、最後は「4月入学に間に合うんかしら?」とドキドキでした(笑)
転入先は通信制高校なので3月末の転入でも余裕そうで、「ちょっと位転出関係の書類が4月にずれ込んでも大丈夫ですよ♪」と余裕の笑みでした。
そう。3月に通信制高校に転入する人は、実はとっても多いんだそうで…。
うちは去年の秋で留年が決まってから休学していて、再度1年に入れてもらえるはずが、「そもそも通えないんだったら復学は認められません」と、暗に転校を言い渡されたクチで…。
それが2月の末だったので「なんで今になって!?」と梯子を外された感がすごかったし、突然転校先を探さないといけなくて慌てたりもしましたが。
今にして思えば、こんな状況にならなかったら、明日平は頑として転校を拒否し、全日制高校にしがみつき続けたと思います。
なので正直思うところは沢山ありますが、今となっては、これでよかったんだと思うことにしています。
通信制高校というのは、何らか事情をかかえたお子さんたちが入る学校なので、学校もすごく子供達に理解があります。
まだ数回しか新しい学校の先生と話してませんが、あんなに通信制への転校をいやがっていた明日平も、「もっと早く転校すればよかった」と言ってます(笑)
なので年度末に突然、在籍校から退学や転学を促された我々のような状態の人たちも、ぜひ諦めずに学校を探して下さい。
必ず、お子さんにあった居場所が見つかるはずです。
高校を転校して再スタートを切ろうとしているお子さんや親御さんには、明日平と私から全力でエールを送りたいです。
新しい学校もちゃんと卒業できるか分からないし、この先どうなるか分からないので、よそ様にエールなど送ってる場合ではないかもですが(恥)
転校先でどんな展開が待っているか、などの情報も含めて、同じ境遇の人の役にたつ情報を、これからも発信していけたらと思っています。
正直完全不登校になりたての最初の1か月のことは、ほとんど覚えていません。
子供はもちろん、 私も頭真っ白でした。
今にして思えば、記録として日記でもつけておけば…と思うのですが、当時はそんな余裕はありませんでした。
そんな中、この時期一番つらかったことだけは覚えています(というか、忘れられません)。
それは、先生やお友達・クラブの部員からの登校刺激や家庭訪問です。
もちろん明日平のことを思っての善意からやってくれた事でしたが、これが当時明日平には一番堪えたようでした。
これはもう完全に人様の善意なので、普通の人なら「家まで持ってきてくれるのが辛いとはけしからん!」となると思います。
ですが、我が家の場合、早急にお断りしました。 (最終、先生に分かってもらうにはだいぶ時間がかかりましたが)
学校の通学路沿いに家があるので、帰りについでに入れてくれるだけなので気にしなくていい、と(先生からは)言ってはもらえたのですが。
先生は「気にしなくていいですよ😉」と言うけれど…。
逆の立場で考えると、毎日頑張って通学している自分の子供が、不登校児のために連絡帳とプリントを届ける係になったら、「先生」はよくても「親」としては複雑だろうなと思いました。
しかも、よかれと思ってやってくれていることなのに、明日平は夕方のポストの音と子供達の声におびえるようになり…。
私も、善意を素直に喜べないことが心苦しくなってしまい、いろんな面で本末転倒なことになっていました。
なので先生にお願いして、1週間に一度近況報告も兼ねて私が職員室に出向き、学校カウンセリングの日にプリントなど配布物をいただいて帰ることにしました。
あと、先生の訪問や電話もしばらくストップしていただくことにしました。
それから、毎朝私からの「休みます」という電話もストップさせていただくことにしました。
(毎日学校に電話するのが辛かったので😥)
これで少し私の気持ちが楽になりましたし、明日平も夕方神経をとがらせることもなくなりました。
話をしてみると、明日平とゲームがしたいとのこと。
明日平に、「〇〇君が来てくれたよ!」 と言うと、明日平は慌てたように何度も首を振ってトイレに逃げ込んでしまいました。
この時私は理由が分からなくて、せっかく来てくれたのに何で対応できないんだろうと思いました。
学校に誘いに来たのではなく、単に遊びに来てくれただけなのに…。
でも実は、せっかく来てくれたお友達になぜ会えなかったのか明日平本人も理由が分からず、ほかでもない本人が一番混乱していました。
小学校の時からの親友の訪問にも慌てふたいめいて隠れてしまった自分が情けなくて悔しくて、その日ずっと泣いていました。
また別の日には、クラブの仲間が夕方5~6人で家にやってきてくれました。
この時も、明日平はトイレに逃げ込んでしまったので私が対応し、皆が帰った後ずっと泣いていました。
「お友達と会いたいし、ワイワイがやがや学校生活をしたい」というのが明日平の望みなのに、それができない事が、この時以来何年も明日平の苦しみの原因になりました。
これは親の立場からの話なので、また別テーマで詳しく記事を書くとして、この時期辛かったもう一つのこととして書いておきたいと思います。
不登校になって数週間後に、「子供から聞いたんだけど、学校休んでるんだって?」とママ友からメールと電話がありました。
少しズケズケ何でも聞いてくるママなのですが、不登校の理由がどうしても知りたかったみたいです(笑)
あまりしつこいので「今は何も聞かずそっとしておいてやりたいんだ~」と言うと、「なんでー?心配じゃないの?なんで追及しないの?」と質問攻めに…😫
スーパーで別のママにあった時もやんわりと聞かれたし、うちの実家の親もスーパーで「おたくのお孫さん、学校に行ってないんだって?」と聞かれました。
なので、あの当時、近所中で噂の的になってたんだろうと推察しました(笑)
家にも電話やメールが来るし、外にでると挨拶がてら色々聞かれるし、もう人と会ったり話したりするのが辛くて辛くて…。
なので当時は、スーパーへのお買い物はいつも夜9時以降に行ってましたし、宅配便も夜配達指定にして、誰とも顔を合わせないようにしていました。
親の私がこんなに昼間の社会生活が辛くなっていたのだから、明日平も辛いのは当然で、この後明日平はどんどん昼と夜が逆転した生活になっていくのでした。
1年生もあと最後の一週間という時に、学校に行けなくなってしまった明日平。
春休み期間中、 クラブも含めて完全休養し、ゆっくり体調を整えました。
学校との話し合いや必要な配慮についての打ち合わせも事前に済ませ、あとは本人が登校するのみです。
明日平も、1年の最後に休んでしまった負い目もまだ感じつつ、久しぶりにお友達に会えるのも楽しみにしていました。
今にして思えばこのころから既に、強迫の症状以外にも、人目を気にする症状も出始めていました。
この日も、いざ朝になると急に登校するのが怖くなった明日平。
学校に電話して、皆の登校時間と少しずらしてもらい、10分ほど遅刻して学校に到着しました。
そして校門で待ってくれていた1年生の時の担任の先生に付き添われ、同級生が集まっていたクラス替えの紙が張り出されている場所へ。
明日平のクラスの紙の前にいた、仲の良いお友達数人の輪にさりげなく合流させてくれました。
クラスは、前回の記事で書いたように明日平と仲良しのお友達を一人、同じクラスにしてもらえていました。
小学校から明日平をいじってからかう某ヤンチャな子も、別のクラスに配してもらいました。
ただ、やはりすべてが思い通りにというのは無理で、「某ヤンチャな子」の子分格の子が同じクラスになりました。
(これが後々のトラブルのきっかけになるとは…)
始業式を済ませ、午前中で帰宅した明日平。
すごく緊張して学校に行っていたようで、たった2~3時間のことだったのに、かなり疲れた様子。
まるで遠足か運動会から帰ってきたかのような疲れ具合で、私はそれが少し気になりました。
ただ、本人は学校に通う気満々だったので、たくさんの新しい教科書に一つ一つ名前を書いて翌日に備えていました。
「〇〇君と同じクラスになれたよ!」とか、「クラブの先生が遠慮せず休んでいいから、気にしなくていいからって言ってくれた♪」とか、学校の話をたくさんしてくれていました。
「やはりゆっくり休ませてよかった、長期休み前に不登校になったのは、逆によかったかもしれない」と思っていた矢先。
ある日、案の定某ヤンチャな子の子分にちょっかいを出されて皆に笑われたことで、緊張の糸が切れてしまったようで…。。
先生にも告げず、突発的に荷物をまとめて学校を飛び出してきてしまいました。
玄関に入るや、
「ママ、家でちゃんと勉強するから。
家でちゃんとした生活するから。
もう学校に行かなくていい?」
と言って、玄関土間に座り込んで号泣しました。
私も涙を抑えきれずに、玄関土間で2人抱き合いながら号泣しました。
明日平はこの日を最後に全く学校に行けなくなり、完全不登校になりました。
中一で初めて不登校になった時は、本当に突然でした。
クラブのトラブルがあって日々悩んでいたけど、日常生活は普段通りでした。
普段通りといっても、毎日かなり頑張っていたのですが、 はたから見ていて体力面では特に何の問題も感じませんでした。
ある日突然、ぼーっとなって何も考えられなくなってしまい(カウンセラーさん曰く「乖離状態」)、早退してきました。
その後数日間は布団の中にずっといましたが、あとから考えるとこの時は回復は早かったです。
ところが、中二になってから私がずっと気になっていたのは、毎日学校から疲労度マックスな状態で帰ってきていたこと。
トラブルがあって心理的な原因で学校にいけなくなった1年生の時と違って、2年生の時は疲労が積み重なって、気力がポッキリと折れてしまったような印象でした。
心は限界を迎えつつあるものの、でも気力・体力でなんとか頑張っていたのが、もはや体力さえ限界を迎えた、という感じです。
後々になって「慢性疲労症候群」という言葉を知るのですが、あの当時は今にして思えばまさに「慢性疲労」の状態だったと思います。
当時の明日平は、ぼーっとしてユラユラしながらトイレに行ったり、それ以外は寝込んでいるかどちらかの状態で、およそパワーいっぱいの思春期男子とかけ離れた様子でした。
当時の私はまだ不勉強で、明日平の身体の中で起こっていることは具体的には分かっていませんでしたが、明日平の様子を見て「これは大変なことになったな」と思いました。
子供の前では「ゆっくり休もうね♪」と冷静を装いつつ、頭の中は「どうしたらいいんだろうか…。」と大パニックになってしまったのでした。
1年生の学年末、突然学校に行けなくなった明日平。
しばらくは寝込んだり落ち込んだり大変でしたが、 日にち薬というのか、日々少しづつ落ち着きを取り戻していきました。
4月の頭には児童精神科を受診し、いくつか所見とアドバイスをいただけたのも、心強かったです。
相変わらず潔癖恐怖のため外に出かけることはできませんでしたが、学校のお友達数人でラインで通話しながらゲームを楽しめるまでになりました。
まさか完全不登校になるとはこの時は全然思っていなくて、どうしたら新学期、安心して登校できるだろうか、とそればっかり考えていたのがこの時期です。
今日のお話は、春休み中に学校に対して新学期からの配慮をお願いしたお話です。
春休み明けの新学期と言うのは、不登校のお子さんに限らず、誰にとっても新鮮な気持ちになるのと同時に不安も大きい時期です。
子供達にとっては、担任の先生が変わるのももちろんですが、なんといってもクラス替えが一番の心配事なのではないかと思います。
2年生になる前の春休み、我が家もそれが一番心配でした。
この時はまだ、春休みゆっくり休んで心機一転、また新しい学年からやり直せると、明日平本人も私も思っていたので…。
ただ、学年末に1週間休んでしまった負い目がすごくて、学校に行きづらいようだったのが気になって、病院の先生やカウンセラーさんに相談しました。
どちらの先生も、「学校と保護者の間の情報共有や、必要な配慮をお願いすることは、ぜひ遠慮なくやりましょう」とおっしゃいました。
特に病院の先生からは、「当然の権利なので必要なことは遠慮なく言うように。」と、割と強く言われました。
子供の現状や特性に合わせて色々お願いすることを「合理的配慮」というそうで、この時初めて知りました。
カウンセラーさんからは、クラス編成や担任の選定に関してもこちらの希望を伝えてもいい、ともアドバイスをいただきました。
ところがそんなアドバイスはいただいたものの、今まで学校に何か特別に依頼したことなどほぼ皆無だったので、しばらく悩みました。
特にクラス編成に希望など出したことがないので、モンスターと思われたらどうしよう…😫と思うと最初はものすごく気が引けました。
ポイントになるのは、強く依頼したり強制したりするのではなく、あくまでも「こちらの困り事や希望を知ってもらう」ことなんだそうで…。
こちらが困っていることを具体的にお知らせして相談した結果が、クラス編成の参考にしてもらえたのであれば、別にモンスターでも何でもないそうです。
これは後に学校の先生からも同じことを言われました。
私がガチガチに緊張して、平身低頭で「すみません」と連発しながら、事前準備したメモを見ながら先生に新学期からの配慮をお願いしていたからなのですが(笑)
「色々教えてもらった方がより具体的に対応できるし、その方が学校としてはありがたいので、何でも相談してください」と言ってくださいました。
今改めて思い出してみるに、学校には頭を下げてお願いしたりお詫びしたりの連続で、とても苦しかったです。
病院の先生から「当然の権利」とは言われたものの、私の性格上、「うちの子のために〇〇して下さい!」 と堂々と胸張って言えませんでした。
私だけじゃなく、同じような人いっぱいおられるんじゃないかな~と思います。
もっと世の中の理解が進んで、発達に個性のあるお子さんやその親御さんが、必要以上に頭を下げたり恐縮したりしなくて済むような世の中になってほしいな…と思います。
ということで保護者から学校にお願いしたのは、下記2点。
一番の要望は、クラブはもうやめたいし、誘わないでもらいたいこと。
(春休み中に、「ランニングだけでも来ませんか~。体動かした方が気分転換になりますよ~。」と電話があったため(泣))
二番目は、1年生の最後のトラブルなど事情をご存じの先生に新担任になってもらいたいことと、明日平にちょっかいを出してくるお子さんと接点を減らしてほしい事。
(結構なイジられキャラのため(笑))
この2点でした。
この1年の間、言いたいことが山ほどあったのですが(笑)、あれこれ沢山お願いするのも気が引けるので、どうしてもお願いしたいことだけ依頼しました。
3月末までの担任にあれこれ沢山お願いしても、新担任にちゃんと伝わるか分かりませんし、新担任には改めてお願いしたいこともあるので…。
あと、新しい担任の先生が決まったら、カウンセラーの先生からも明日平について必要な配慮について話し合ってほしい旨、お願いしておきました。
ものすごい勇気がいりましたが、こちらの現状説明と今後の希望をお伝えし、後のことは学校にお任せすることにしました。
保護者からのお願いをもとに学校で色々考えて下さった結果、担任の先生とクラスが決まりました。
落ち込んでいる明日平のために、若くて元気のいい明るい先生を配してくださったようです。
(が、これが裏目に出て後々大変なことになるのですが(笑)、それは追々…)
クラスに関しては、明日平にちょっかいを出す生徒さんと別クラスにしていただけました。
それから、嬉しい配慮があって、仲のいいお友達を一緒のクラスにしてもらえました。
あとこれは私は考えていなかったのですが、誰にでも声をかけられて顔が広く、気さくで面倒見のいいお子さんも配してくださったようです。
クラス替えについて配慮があった話は、明日平には内緒にしました。
何かのタイミングでポロっと、誰かお友達に話してしまうかもしれないので、無用なトラブルを避ける為にも大人たちだけの秘密にしました。
「いろいろありがたいな~、言ってみるものだなぁ~」と嬉しかったですし、親の私は新学期への希望が湧いてきました。
明日平は新学期について不安を口にしつつも、春休みにライン通話しながらゲームしていたお友達に会えるのが楽しみで、登校する気満々でした。
でも、のんびりほのぼの穏やかで優しい明日平を見るのは、この日が最後になってしまったのでした。
「不登校で病院に行くかどうか」については、色々と意見が別れるところだと思います。
特に精神科や心療内科の受診は未経験者にとって敷居が高く、我が家は何年も悩みました。
明日平は、中1の終わりから児童精神科でお世話になっていますが、不登校がきっかけではありませんでした。
たまたま不登校になる2か月前の1月に、既に児童精神科の思春期外来に予約を取ってあったのですが、結果的に不登校の始まりと同時期の受診となりました。
明日平の強迫観念と感覚過敏がマックス状態になって生活に支障をきたすようになり、やむなく児童精神科に予約を取ったかっこうです。
もっと早く受診させていればよかったのかな、と当時かなり落ち込みましたが、精神科に行くと投薬もありうるので、それがどうしても不安でなかなか勇気が持てませんでした。
病院受診の迷いや不安・罪悪感(保護者の側の)、そこからどう心の整理をつけたかについて初診日のお話とからめたのが今日の記事の内容です。
あちこち検索して見つけた病院に予約の電話をしてみると、診察まで何と3か月待ち(😲!)。
で、1月中旬の時点で取れた予約は、なんと4月下旬でした。
かつて通っていた児童相談所も初回まで2か月かかりましたが、児童精神科は更にその上をいく3か月もかかり驚きました。
子供が学校を休み始めた時ただならぬものを感じて、予約済みの児童精神科に電話で相談したところ、キャンセルで空いた枠ができ次第連絡をもらえることになりました。
春休み中ずっと家にこもって苦しみ続けてるのは可哀そうで、なるべく早くに診てもらいたいと毎日念じていたら、4月明けてすぐにキャンセルが出て診ていただけることになりました。
初診の日は、「最初に記入するものが沢山あるから予約の1時間前に来るよう」に言われていました。
子供の成育歴や生活歴など事細かに書く問診票や、YES・NO形式で答える質問票など、盛りだくさんで…。
近年パソコンやスマホでばかり字を書いているし、頭も手も使ってなかったので、書類書きは疲れました~😅
初診日より前にも、当日言い忘れがないよう前もって色々メモをとっていたので、それもあってしんどかったです。
で、待合で記入した書類をもとに保護者が診察をまず受けるのですが、子供はその間個別ブースで木の絵を描くように言われていました。
元々、家の瓦一枚一枚や服の縫い目など、一切の妥協なく忠実に描写する子です。
写生に行った先に自動販売機があったら、自動販売機の中の飲み物の並びや値段まで記憶して、後日忠実に再現しようとしたり…。
(建物の絵を描きに出向いたのに、なぜか一人だけ自動販売機メインに描いてるとか…🤣)
手先が不器用なので書く絵は下手っぴなのが残念ですが(笑)、ちょっと山下清っぽいところが昔からありました。
(この記憶力の理由は、後々のWISCⅣで明らかになります。)
この日も予想通り葉っぱ1枚1枚しっかり書き込んでいたようで、異様に時間がかかっていて何度も臨床心理士さんが様子を見に行ってました🤣
だいぶ後で知ったのですが、これは『バウムテスト』っていうそうですね。
今となっては理由はちょっと分からないのですが、描いた絵を親は見せてもらえなくて残念でした。
この後明日平は、ほかにもいくつかちょっとしたテストを臨床心理士さんと一緒にしたようです。
明日平も「病院って大変。めっちゃ疲れた😫」と言ってました。
私達が行ったのが「児童」精神科だったからかもしれませんが、病院は明るく落ち着いた雰囲気で想像していたのとは全く違いました。
先生もとてもやさしい先生で、かなり時間を取って聞き取りをしてくださいました。
時々、「あ~、そういうのあるあるですね🤣」とか、「それは大変でしたでしょう😯」とか共感して下さったのが、あの時の私にはとてもありがたい対応でした。
なんせ今まで学校から、神経質な子供と大げさな母親としか思われてこなかったので…。
で、一通りの聞き取りが終わった後、
「今日お聞きした中で、明日平君の今一番の困りごとは何ですか?」
と質問されました。
その時一番困っていたのは、潔癖と家族を巻き込んでのエンドレス確認儀式だったので、そう答えました。
ここでもし「不登校」と答えると、また違った展開になったかもしれませんが、うちは「強迫性障害」の治療をメインに進めていくことになりました。
病気や障害を診断されて薬で治療するのが精神科だと思い込んでいたので、「今一番困っている事からまず解決していきましょう。」と言われて嬉しかったです。
当時、もう頭の中がゴチャゴチャになっていて、何から手を付けてよいのやら、何が一番の優先なのやら分からなくなっていましたが、
「子供本人が今一番困っていること」
から取り組んでいくのだな、と道筋が見えて、ホッとしたのを覚えています。
覚悟を決めて予約から準備から何から何まで結構大変でしたが、これならもっと早く来ればよかったと後悔しきりでした。
それは、強迫の症状が始まった小学4~5年生の時代の聞き取りの時に、「初発から3年かぁ~」と先生がつぶやかれたことです。
私が「?」という顔をすると先生が、「その時点で受診することは考えなかったのですか?」とおっしゃいました。
一応、地元の小児科で相談して漢方を処方していただいていたお話をしたんですが…。
思い返してみたら、当時の小児科の先生は「不安を抑えてくれるお薬を飲むという選択肢もありますよ。」とそれとなく勧めて下さってたなぁ~と。
その時点で、まだ抗不安薬を子供に飲ませる決心がつかずお断りしていました。
それを聞いて、「強迫性障害はね、早く治療を始めれば始めるほど効果的なんですよね~」と言う先生。
マジかー!投薬治療をさせるのはしのびないとか、不安とか、そういうのがあってなかなか決心できずにいたのですが…。
もっと早くに治療を始めた方がよかったのかもしれない、私が間違っていたのかもしれない、と罪悪感でいっぱいになってしまいました😫
これが今日のキモというか、まとめのお話になります。
後日、学校にカウンセリングに行った時、上記の後悔と罪悪感を打ち明けました。
するとカウンセラーのK先生は
「お母さんは、小学校時代お薬を勧められた時、明日平君に飲ませようと思いましたか?」
「いいえ。その時はまだ決心がつきませんでした。」
「もしその当時の段階で、治療は早い方が効果があると教えてもらえていたら、積極的に治療に行きましたか?」
「う~ん、どうでしょう。不安でいっぱいで迷っただろうし、あの時は家族と学校で協力して環境を整えて改善したいと思っていました。」
「ご自分で色々努力されて、何年も悩んで、”今”病院に行こうと思われたのですよね。」
「はい。」
「では、”今”こそが病院に行くタイミングだったんじゃないでしょうか。」
「行かないといけないのに、行きたくなかったであろう私は間違っていますか?」
「せねばならない、というよりも、そうしたいかどうかが大切だと私は思います。」
「明日平君のことを考えてそう決断されたのですよね。」
「はい。でも受診が遅すぎて取り返しがつかなかったら明日平に申し訳なかったです。」
「納得して動いた”今”だからの結果であって、そこにいい悪いはないのではないでしょうか。」
これ以後、節目節目で「せねばならないかどうか」より「自分がそうしたいかどうか」という判断基準が私の中に出来上がりました。
明日平から悩みを相談される時も、明日平がそれをしたいかどうか、明日平が納得できるかできないか、問うことにしています。
失敗すること、やって後悔すること、人生多々ありますが、義務感からやったことと、自分の意思でやったことでは、自分の中に残る感覚が違うな、と実感しています。
最初にも言いましたが、精神科を受診するかどうか迷っておられる方は多いと思います。
もしお子さんを精神科に受診させるかどうか迷って判断つかずにいる方がおられたら、「”今”自分はそうしたいかどうか」自分の心の声を聴いてみられることをお勧めします😘
初期対応の際、カウンセラーさん(以下、K先生)が一緒に対応していただけたことは不幸中の幸いだったと、とても感謝しています。
K先生は、明日平が小学校6年生からお世話になっている方で小学校から中学校にかけての不安定な明日平と私を支えて下さった先生です。
明日平が不登校になって誰とも会わなくなってからは、私が一人でずっと今も通い続けています。
元々不調の兆しはあったとはいえ、放心状態の子供がいきなり早退してきたら私一人であわてふためいたかもしれないし、
次の日も冷静に、明日平をそっとして休ませてあげる対応ができたかどうか怪しいです。
前回の記事にも書きましたが、明日平の様子が尋常じゃなかったので(K先生曰く「乖離状態」)、頼りない母親の私はテンぱっていた可能性が高いです。
「どーしたん?」「大丈夫か?」と、何度も問い詰めしまってたような気がします😱
「初期対応」と言っても、そっと見守って休ませただけなので、大層なタイトルをつけてしまってすみません(笑)
早い話が、学校を休みたいのもOK、クラブが辛いと感じるのも辞めるのもOK、本人が何か話したくなったら(←ここ大事✨)よく聞いて全肯定、を貫くよう心掛けました、というお話です。
今となってはもう慣れっこな対応ですが、今まさに不登校なり始めの方には、何か役に立つことがあるかもしれないので備忘録として残しておきたいと思います。
不登校になる前日、早退してきたところからの我が家での対応を時系列で綴っていきます。
前回の記事『不登校の始まりはクラブでのトラブルがきっかけ【不登校1年目】』の続きからになります。
早退するという明日平を保健室に預けて、カウンセラーのK先生に同席してもらって担任の先生と私と3人で話をしました。
K先生は、「とにかく休養が必要」とおっしゃいました。
私は「休養というのは、今晩家でしっかり休むことですか?それとも明日学校も休むことですか?明日は休みたいと言っても学校に来させたほうがいいですか?」 と質問しました。
K先生は、明日平君は1日2日では回復するような状態ではないことを担任の先生と私に説明してくださいました。
なぜなら、去年からずっと続いていたストレスだから、数日休んだだけでは回復しないし、ストレスの元(クラブの連帯責任制)を取り除かないと根本解決にならないという訳です。
まず、自宅でゆっくり休むのはもちろんのこと、元気が戻り次第安心して登校できるような環境づくりの、両方を進めておかないといけない、と。
担任と話し合った結果、終業式まであと4日しかなかったので、4日間丸々休ませていただくことにしました。
今では考えられませんが、この時は4日休ませるだけですごく緊張したのを覚えています。
明日平が苦しんでいた学校の問題は学校の先生間で調整してもらい、休養と見守りは保護者が受け持つ、という役割分担も明確になりました。
そんなこんなで、3学期残り4日と春休みの期間でゆっくり心と体を休ませることを、担任、K先生、保護者の私の3者で確認してこの日は明日平を連れて帰りました。
ただ、クラブの改善については、学校は前年からずっと消極的でした。
先生同士というのは、お互いの教育方針に強く口出ししづらいのかもしれませんね。
カウンセラーの先生から口添えしてもらっても、私から伝えても全然ダメでした。
担任の先生も「はぁ。そう伝えます。」とは返事していましたが、「そんなこと私に言われても~🙄」みたいな困惑顔でした。
部員全員で連帯責任を負っていたのに、音を上げたのはうちの明日平だけなので、先方(顧問)もきっと???状態だったんだろうと思います。
うちの明日平が規格外のヘタレでこんなことになったんだと思われてるんだろうな~、と思うと悔しかったです。
この時期「規格外のヘタレと大げさな母親」みたいに対応されているのを痛いほど感じて、悲しく悔しい思いをすることが多かったです😩
クラブに関しては、結局「あぁ、これは何を言ってもダメだわ…。」とあきらめて、私の一存で4日どころか強制的に無期限休部させたのでした。
この日の朝、学校を休むことは決まっていたのですが一応「今日はどうする?」と明日平に声をかけました。
すると明日平は、「休む」と一言言って気まずそうに布団にもぐりました。
4日間頻繁に「頑張って学校に行った方がいい?」「怒ってない?」と聞かれました。
「全然大丈夫だよ。この機会に心と体を休めようね。」と私は言い続けました。
この後4日間の本人の罪悪感たるやものすごいものがあり、見ていて気の毒になるほどでした。
身体がしんどすぎて布団から起き上がれない状態なのですが、学校に行けないのを気に病んで身をよじって毎日苦悶していました。
私は涙が出そうになるのを必死で我慢して、「学校を休んでも全然大丈夫なんだよ。ゆっくり休もう。」と、根気よく言い続けました。
「今までよく頑張ったし、しんどかったよな。」と声をかけると、目をぎゅっとつぶってうなづいていました。
この時はまだ正直、内心「ちゃんと回復するだろうか。このまま休ませていて大丈夫だろうか。」と不安でいっぱいでした。
「明日平君は、中1ギャップを乗り越えて学校もクラブも通いとおしました。頑張りすぎる位頑張りました。だから、回復までにはそれと同じ時間かそれ以上の余裕をもって焦らず見守ってあげて。」
という、K先生のアドバイスを胸に、一抹の不安を胸の奥に押し込めていたのがこの時の保護者(私)の対応です。
「今まで十分頑張った、と誉めて労う」
「本人の望み通り休みたいだけ休ませる」
「ここまでの状態になるには理由があると理解する」
「本人が話したくなったらじっくり話を聞く」
これらのスタンスで不登校初期を過ごしました。
ただ、あの時この対応が正しかったのかどうか、正直今も分かりません。
なぜなら不登校対応にも色々な考え方があって、人それぞれ対応の仕方が違うからです。
「ゆっくり休ませた方がいい」という考え方もあれば、「3日休むと学校に行きづらくなるから、登校を催促した方がいい」という考え方もあるようです。
確かにうちは最初の危機的な精神状態は脱しましたが、数日休んだその後は学校に行きづらい雰囲気になってしまいました。
でも、数日休んだ位ではリカバリー不可能なほど疲労困憊していたのも事実で、そんな中お尻をたたいて登校させるのは私には無理でした。
それに「話をよく聞いてあげることが必要」とはよく聞きますが、明日平はボーッと抜け殻みたいになってしまっていて、何日間かは話が出来る状態ではありませんでした。
なのでこれが考えに考えた結果、あの時我が家がとった対応でした。
一番辛かったのは明日平なのはもちろんですが、 苦しむわが子を見る私も辛かったです。
もうあんな明日平は二度と見たくないと思いました(…と願いつつ、2年後更にパワーアップして苦しむ明日平を見ることになりますが😭)。
中学1年ももうすぐ終わりという3月のある日、明日平は突然学校に行けなくなりました。
中学に入学してからのほぼ1年間、インフルエンザで学校を休んだ以外は、授業もクラブも無遅刻無欠席でした。
元々発達の凹凸がある子なので、中学進学の際、適応できるかどうか心配していたのですが、思ったよりあっさり乗り越えてくれました。
(中学進学の際の、小学校からの申し送り・引継ぎについては別記事にまとめる予定です。)
しかも本人の希望でクラブ仲間と同じ塾にも入り、「学校の授業と塾と運動部を両立して偉いな~♪」と感心さえしていました。
今回の記事は、明日平の不登校のきっかけについてです。
延々と連帯責任で全員で怒られ続けるという状態が年明けまで断続的に続きました。
全員で立たされたり、罰で学校内外の掃除をしたりしてクラブ活動ができない日々が続き、保護者達からの苦情も入りましたが全く改善されず…。
私の方からも、「当事者達は全く気にしていないのに周りのお子さんたちのモチベだけが下がって、このままでは心配です。」という現状は学校に報告させてもらっていたのですが。
夏の間はまだ持ちこたえていたのですが、秋口から少しづつ明日平の様子がおかしくなってきました。
この時はまだ具体的な診断はおりていませんでしたが、明日平には「自閉症スペクトラム」の傾向がありました。
真面目で融通が効かず、言葉通りに受け取ってしまうところがあるため、連帯「責任」を自分事のように感じ自分のふがいなさを責めるようになっていきました。
あれから3年たった今も、「責任」という単語が耳に入るとパニックになります(泣)
よっぽど辛かったのだろうと思います。
でも、小学校からのお友達数人と行動を共にしたいという思いが強いのと、責任感が人一倍強いのとで、クラブを辞めるという選択肢は本人にはありませんでした。
当時の私には、「中学生になったのだから自力で問題解決する力をつけさせたい」という思いもあり、本人の意思を尊重してしまいました。
今にして思えば、あの時無理にでもクラブを辞めさせていたら…、と後悔しきりです。
明日平は小学校の高学年の時、手洗いがやめられなくなった時期がありました。
冬に手に粉が吹いて真っ白になり、ビックリして皮膚科に行ったのですが、
「お子さんにはよくあることだから心配しないで。そっとしておいた方が自然に収まるから(^o^)」
という先生のアドバイスをいただき、少し楽観していました。
そして先生の指示通り、手洗いについておおらかに見守るように心がけているうちに、いつの間にか強迫症状が治まりました。
(この後別件がきっかけで、小児科で初めて「自閉症スペクトラム」の可能性を指摘され、児童相談所に相談に行くのですが、その話はまた別の機会に。)
ところが2年の時を経て、小学校の時にもあった強迫の症状(主に潔癖症)が再び中学1年で出てきました。
小学校の時の潔癖が可愛いとさえ思えるほど、強烈な潔癖症が出て徐々に生活に支障をきたすようになりました。
まず、外のものを家の中に持ち込めなくなり、学校や塾の宿題を玄関土間で済ませるようになりました。
教科書や服など外で使うものを全部、全部玄関に置いておく状態がずっと続き、それはちょっと異様な光景でお客様も呼べなくなってしまいました。
学校から帰るとまず宿題と翌日の時間割を玄関土間で終え、服を全部脱いで洗面所に直行して、長い間シャワーを浴びていました。
ず~っとシャワーを浴びているので時間が経ってしまい、帰宅して宿題をしてシャワーを済ませると、あっという間に塾の時間になってしまい…。
その後塾に行って帰ってきても、また服を全部脱いで洗面所に直行して長時間シャワーや風呂に入っていました。
本人も風呂やシャワーを辞めたいのに辞められず、泣きながらシャワーを浴び続ける日々が続きました。
服もシャワーのたびに全とっかえで、このころは2人家族なのに1日に3回も洗濯していました。
そして外出するたびの手洗いや風呂にこだわりすぎて疲弊してしまい、そのうち塾に行く気力をなくしてしまいました。
親子でいろいろ相談した結果、塾を辞めることに…。
その時は、塾を辞めて夜ゆっくり休む時間を確保できたことで、何とか2学期を無事終えることができました。
学校から帰ってから出かけることがなくなったので、それまで何度も入っていたシャワーとお風呂の回数が減ったのも、心理的な負担減につながったと思います。
後付けの理由ですがもう一つ、この年の夏からジュニアプロテインを飲み始めました。
運動部だったので身長を伸ばしたいから、という理由からですが、今にして思えば、クラブから帰宅してすぐ毎日プロテインを飲んでいたのも体力と気力の温存に役立っていたと思います。
(これが今、「睡眠」と「休養」と「栄養」を特に大切にするきっかけとなっているのですが、この話はまた別の機会に。)
年が明けて「不真面目を罰する連帯責任」の懲罰が終わり、やっと本格的にクラブ活動が始まると、今度は部員の「下がったモチベを叱責するための連帯責任」の懲罰が始まりました。
いろんなパターンの連帯責任ペナルティがあったのですが、明日平は「声が小さい」と責めらるのが一番つらかったようです。
「声が小さい」とか「やる気を見せろ」と言われ続けたのですが、チビの特性上、指示が曖昧すぎてどうすればいいか分からなかったみたいで…。
そのころタイミング悪く、学校行事で歌う合唱練習があり、「声が小さい」と学年全体練習でも(全員に向けて)指摘されたようで悪いことが重なりました。
「毎日声を出せと怒られる。出しても出しても怒られる。もっと大きな声ってどれ位のボリュームか分からない」と自宅で泣くことが続きました。
そしてその内普段の「声」も出せなくなって、オドオドして挙動不審ぽくなり、同級生にからかわれるようになりました。
ここでさすがに明日平本人も、もうクラブは無理だと思ったようで、私にクラブを休みたいと言いました。
(辞めるのは自分で自分が許せないので、ひとまず「休む」という選択をしたようです。)
私もずっとクラブなんかやめちゃえばいいのに、と憤慨していたので、渡りに船と即効で顧問に電話しました。
ところが顧問は、「厳しいことを言うようだけど、あえて明日平君には乗り越えてもらってクラブ活動させたい。」と。
私はオバちゃんなので「はぁ?クラブを辞めるか辞めないかはこっちが決めることですけど。」と思ったのですが…。
明日平はクラブを休むことすら許されないと思い詰めてしまい、その日ずっと勉強机の下にもぐって泣いていました。
クラブの顧問との全くかみ合わない電話の次の日、暗い顔で学校に行った明日平は、午後になって学校を早退してきました。
後で聞くところによると、クラブの時間が近づくと不安で気分が悪くなったんだそうです。
カウンセリングルームにいったん退避したのですが、先生から「大きなストレスがかかって乖離しているようだ。今日は連れて帰ってゆっくり休んでください。」と言われました。
無表情でボーッとして抜け殻みたいな、一種の放心状態になっていました。
何か聞かれても無言か、「わかりません」とつぶやくことしかできなかったようです。
そしてクラブも、私の強い意志で休養させることにしました。
(クラブでの問題は前の年から何度も問題になってるので話がスピーディで、最終は上の許可をもらって休部させました。)
1週間学校とクラブを休み、春休みを自宅でゆっくり過ごしたら、2年生はまた元気に登校してくれる、とその時はまだ信じていました。
中学不登校だった息子・明日平が、高校で再度不登校になりました。
不登校の最初の始まりは、中学1年の3月半ば。
そこからずっと勉強も手につかずにいたのが、中学三年の秋に「普通高校に入りたい」と一念発起。
中三の九月から2年分の勉強を自宅で自力でこなして、普通高校に入りました。
最初は嬉しそうで希望に満ちあふれていたのですが、そのタイミングでまさかのコロナ禍。新学期から6月までずっと休校で、リモートで朝礼と夕礼。
宅配便で定期的に箱一杯に送られてくる宿題で、毎日パニックに…。
そして分散登校が始まっても、休み時間や昼食中は私語禁止で、引っ込み思案な明日平は友達も作れず。
最後は鬱状態で授業や宿題が手につかなくなり、頭を抱えて震えながら泣くようになりました。
保護者の私から先生に子供の状態を報告して相談したところ、「明日平君と話し合います。」とのことだったのですが…。
「辛いのは皆同じだ。甘えるな!」
という叱責を受けることになり、「ママ、なんで先生に相談したん?」と帰宅するなり号泣する明日平。
入学前からチビについてはいくつか配慮をお願いしてあって、先生も承諾して下さってたんですが、このコロナ禍では「皆しんどいんだから…」というしかなかったのかもしれません。
1度目の不登校で弱って完全回復していなかった心が、とうとう壊れてしまいました。
そして、そこから一度も学校に通えなくなりました。
後日談で分かった事ですが、先生的には愛ある叱咤激励のつもりだったそうです。
確かにあの時期、世の中のお子さんほぼ全員が同じ境遇にありました。
なので、甘えだと言われたら確かに甘えかもな、と認めざるを得ませんが…。
でも、助けを求めた先から「甘えるな」と突き放され、絶望してしまった明日平なのでした。
そして2021年3月、留年となった明日平は、今の学校でもう一回1年生になることを諦め、通信制高校への転学を決めました。
不登校を克服して勉強にいそしみ、頑張って入った高校を諦めることができず、ずっと葛藤していましたが、ここにきてやっと決断。
学校から、それとなく転学を促されてのことなので本人的には消極的な動機ではありましたが、私は親としてこれをチャンスととらえたいと思っています。
明日平が今度こそ安心して生きられる居場所を見つけるのを、微力ながらサポートしていく所存です。
元々2014年から運営しているブログがあるのですが、このブログはそこからのスピンアウト版になります。
自閉症スペクトラムという発達障害をもつ子供を育てたことで、今まで見えなかったことや知らなかったことに沢山気づくことができました。
そして、思春期を迎えた子供が不登校になって、そこで初めて知った事もたくさんありました。
こういった事はなかなか当事者でないと分かりづらいことがあるので、記事を書くからにはご縁あってお目に留まった人に少しでも役にたつ情報を残したいと思いました。
ただ、メインブログの方は、お出かけ日記中心につづるブログだったので…。
そこに、別テーマで新たに不登校関連の記事を詳細に書いていくのは難しいと判断して、別ブログを立ち上げた次第です。
このブログでは、うちの明日平の不登校のことや、その原因となった発達障害や二次障害のことについて、もっと突っ込んで掘り下げてみたいなと思っています。
というのを実は前から考えていたのですが、ここ数年はブログに書く勇気も気力もなく…。
(勇気、というか、再度思い出すのがまだ時期的に辛かったというのがあります。)
ですが2度目の不登校が落ち着きつつある今がその時だと、今回思い立ちました。
そんなこんなで、今まであったことを振り返りつつ現在進行形の話も含めて、じっくり書いていきたいなと考えています。
過去と現在が入り混じる構成になりますが、できるだけ分かりやすくまとめていきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。